高遠城のたたかい

 天正十年(一五八二)二月、いまから四百四年前のことであります。

織田信長が、武田氏をうつために、伊那地方にせめこんできました。

 このときのことですが、和田城主の遠山景広(かげひろ)は、自分の一族八名、家臣百三十余名を

引きつれて、武田方が死守する高遠城へかけつけ、城にこもりました。

 この高遠城のたたかいは、はじめから、勝目のないことははっきりしておりました。

 日本で一番強い武士の集まりだとされた武田軍が、押しよせる織田の大軍の前に何もできず、

ほろび去ったなかで、この高遠城の将士たちだけが、必死の抵抗を続けたのです。

 戦国の時代は、たたかいに明け、たたかいにくれる血なまぐさい毎日でした。

 武士のさだめとはいえ、あの地蔵峠を越えた遠山氏一族の心のうちがあわれです。 

 さて高遠城は、織田の大軍にとりかこまれ、将士たちは死にものぐるいでたたかいましたが、

いかんともしがたく、ついに城は落ち城主仁科五郎信盛(にしなごろうのぶもり)は、腹をかき切って、

壮れつなさいごをとげました。

ときに信盛は二十六歳、水もしたたる若武者だったと伝えられております。

 ところで遠山氏一族も、ことごとく城と運命をともにしました。

しかし総大将、遠山景広だけが、はっきりしておりません、戦死したという説と、鎌倉へのがれ

てその地で死んだとも言われます。

 戦死した信盛をはじめ、主だった武将の首のないなきがらは、織田軍が引きあげたあと、村の

百姓たちの手で、城から運び出され、高遠の五郎山というところに手厚く葬られました。

 五郎山には、仁科五郎信盛をはじめ、主だった武田方の武将がまつられていますが、その中に

遠山氏一族の遠山遠江守
(とおやまとうとうみのかみ)の弟の遠山図書(としょ)(景俊)の名も見えます。 

 高遠のコヒガンザクラは、その美しさにおいて日本一だといわれておりますが、それは
落城の

とき流した将士の血のあとに咲いたからだと伝えられています。


 青崩峠と武田信玄